まだ見ぬ光を信じて 〜なぜ私は人間に希望を託すのか〜

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まだ見ぬ光を信じて 〜なぜ私は人間に希望を託すのか〜

「どうしてそこまで人を信じられるの?」
「どうして人を諦めないの?」

以前書いたコラムで、私は“ 傷ついてもなお人を信じる力 ”について綴りました。
すると、ありがたいことに、「その力はどこからくるのですか?」という問いが寄せられました。

改めて、自分の内側を見つめ直す中で、私は気づいたことがあります。
私は、“ 信じる力 ” というより、“人間という存在そのものへの希望 ”を持っているのだと。
今日は、なぜその希望を託すことができるのかを、少し言葉にしてみたいと思います。


■「裏切られた」だけでは、終わらなかった記憶

私も、人間関係の中で傷ついたことがあります。
本気で向き合っても伝わらず、誤解され、拒絶されたこともありました。
「こんなに大切に思っているのに、どうして通じないんだろう」と、
胸が締めつけられるような経験もありました。

でも、不思議と私の中には「それでも、この人には本当の優しさがあるはず」という思いが残っていたのです。
あれほど苦しくて、距離を取るしかなかった相手の中にも、私はかすかな光のようなものを感じていました。

だからなのかもしれません。
私は、人をひとつの側面だけで判断することができません。
「まだ見えていない部分が、きっとある」
「本人ですら気づいていない、やわらかい部分がある」
そう信じたくなってしまうのです。


■人の“ 防衛 ”の奥にあるもの

人は時に、相手を傷つけることで自分を守ろうとしてしまう。
でもそれは、怖さや孤独の現れでもあるのだと、私は思います。

私が人に希望を託せるのは、そうした防衛の奥にある、
「本当はわかってほしい」「愛されたい」という願いに触れたことがあるからです。

たとえ言葉にはならなくても、
不器用な態度の中に、涙のようなものがにじんでいることがある。
その人自身が気づいていなくても、確かに “人間らしさ ” が息づいていると感じた瞬間が、いくつもありました。


■それでも“ 変わらなかった人 ” もいた

正直に言えば、どんなに信じても報われなかった関係もありました。
私の想いが届かず、関係が壊れたままの人もいます。
でも不思議と、私はその人たちを「悪者」にはできませんでした。

なぜなら、「その人の中に希望がない」とは思えなかったからです。
たとえ私には届かなかったとしても、
いつかどこかで、自分と向き合うその時がくるかもしれない
だから 私はその「まだ見ぬ可能性」に、希望を託してしまうのかもしれません。


■“ 人間に絶望しきれない ” という力

私は、自分が「人間に対しての信頼」を手放さずにいられたのは、
自分自身もまた、誰かに信じてもらえた経験があったからです。

過去のどこかで、
「わかってもらえないだろうな」と思っていた私の声に、
そっと耳を傾けてくれた人がいた。
その記憶が、私の中の “ 希望の種 ” になっていると思いました。


■まだ出会っていない部分にこそ、可能性がある

心理学者フランクルは「人生は私たちに問いかけている」と言いました。
私は、同じように「人もまた、何かを問いかけている存在」だと思っています。
問いにうまく答えられず、怒ったり閉じたりすることがあっても、
その奥には、まだ出会っていない “ その人の本当の声 ” がある

そして私は、その声に出会いたいと思ってしまうのです。
それが「人間に希望を託す」という私のあり方につながっているのだと思います。


■最後に:誰かの本質を、信じてしまうあなたへ

もしあなたも、人に期待しては裏切られ、
「もう信じたくない」と思ったことがあるなら、
それでも信じようとしてしまう自分のことを、どうか否定しないでください。

あなたが信じようとするその姿勢は、
きっと誰かにとって、“人生からの問いに応えている姿”なのだと思います。

人間は、まだ見ぬ部分にこそ、可能性を秘めている。
私はそれを、信じ続けたい。
今日もまた、誰かの中の“ まだ出会っていない光 ” に、そっと心を向けながら。